さつまっ子ラーメンのガラスの扉を、女は寒風に首をすくめながら、重い気分で開けた。
「らっしゃい、ませぃ」
 ”ませ”にアクセントのあるドスの効いた言い方で、店の主人が迎えてくれる。
 大きなスープなべが2つある厨房。このスープが全て無くなった時点でその日の営業は終わる。その前に立つ田中邦衛似の主人と、その柔和な笑顔。
 絵になるなぁ。女はさつまっ子にくるたびにそう思い、いつもほっとする。
「なんか今日は雪になりそうですね」
 女は主人に精いっぱいの笑顔を返した。そしてカウンターの奥まった席でなかば中腰になって手を振っている男の方へゆっくりと向かった。
 半月程前までは、つい小走りになるほど軽かった足が、今はなんだか重い。
「寒かっただろう」
 男は今夜もネギラーメンだった。そのどんぶりに添える左手が女の目にはなんとも気取って見えた。
 やはり、今日は話を切り出そう、と女はカウンターにつくことを思い直した。
「テーブルの方でゆっくりしない? ちょっと話があるの」
「話? いいけど…」
 二人は、カウンターのすぐ後ろにある木のテーブルに腰を下ろした。

 男が自分で持ってきたラーメンのどんぶりをテーブルの上に置いた。
 それを見て、女が若い店員に言った。
「わたしもネギラーメンを」
 男は目を丸くし、自分も店員にお代わりを頼んでから、女の顔を覗き込んだ。
「ネギラーメン、嫌いじゃなかった?」
「嫌いじゃないわ。ただ、今まで食べたい気分にならなかっただけ」
 ネギの白い部分を細く千切りにして山のようにのせたラーメン。女は、すっきりと端正とも言えるネギラーメンを、小柄で童顔の自分には不似合いだと思っている。
 男はどこか不安げな顔で、残った醤油味のスープを飲み干した。そしてネギにあうように細く刻んだチャーシューを口に放り込み、ジューシーな肉の味をかみしめた。ゴクッ。男は音を立てて飲み込む。瞬間、その音に反応し、女の体がピクンと小さく痙攣した。
ネギラーメンは基本的には醤油ラーメンがベースだ。上にのせるネギは深川ネギのような太い関東のネギを使う。この白い部分を約10~15cm程度に切り、それを縦に千切りにしする。白髪ネギだ。これに少量のラー油を絡めたものをラーメンの上にふわっと優しく盛り上げるようにのせる。
「で、なんだい話って」
 男が足を組み替えたとき、主人が自ら二人のラーメンを運んできた。
「お待たせしました。珍しいですね、ネギラーメンとは」
 主人は、まず女の前へ静かにどんぶりを置く。
「いつもおいしそうなので」
「お口に合うとよろしいですが」
 主人が二人のどんぶりの中間に、男がカウンターに残してきたギョーザの皿とタレの入った小皿を並べ終えた。
「じゃ、とにかく熱いうちに食べよう」
 男の言葉に、女はテーブルの割り箸を取った。割り箸の中ほどを両手の親指と人差し指でつまみ、優しく左右に引く。パチン。割り箸は綺麗に左右対称に割れた。どんぶりにそっと箸をつける。背脂の濃厚な香りと切りたてのネギの青っぽい匂いが、誘うように鼻孔を刺激する。
 女はレンゲでほんのひと口、スープを飲んだ。これまでに何度も口にした醤油ラーメンのスープが舌にじんわりとしみわたる。ネギのスープに浸った部分を口に入れた。シャリ。かみしめるとネギの鮮烈な香りが口中に広がり、絡めたラー油の香りと絶妙なハーモニーを奏でた。食欲をさらにあおる香りだ。
「どう? うまいだろ?」
「おいしいわ」
「この店のはまた格別だから」
 男はいつもと同じように、両手で大事そうにどんぶりを支えてスープを飲んだ。左の親指とどんぶりのふちの間にしっかりレンゲをはさみこんでいる。レンゲがどんぶりの中に落ちてしまわないようにするためだ。自信たっぷりのその飲み方が女を妙にいらだたせる。かつては、かっこいいとほれぼれしたスープの飲み方だった。
 女はレンゲを使ってチビリと、男が野暮という飲み方でスープをすすった。
 麺を三分の一ほど食べたころ、女は細切りにしたチャーシューを口に入れた。
 チャーシューは最後に食べるもの、という持論の男はあからさまに眉をひそめ、身をのり出しながら口を聞きかけた。
「野暮なわたしに鍵を返して欲しいの」
 女は機先を制した。
 男は一瞬、口を開けたまま顔をこわばらせ、それから既にしんなりとしたネギをひと口食べた。
「新しい男ができたってわけか」
「違うわ。でも、そう思ってくれても構わない」
 女は自覚している以上に男から心が離れていることに自分で驚いていた。
 男はあいまいな顔で、残っていたラーメンを食べ、スープを一気に飲み干した。そして残っていたチャーシューをそのままにどんぶりを頭上にあげて叫んだ。
「ネギラーメン、お代わり!」
無言でラーメンを待つ男の指が、コツコツと小刻みにテーブルをたたいている。かつては女の身も心もうっとりと陶酔させた、長いきれいな指だった。
 女はギョーザのタレの入った皿に目を移した。ふと、そのタレを男の頭の上にぶちまけてやりたい衝動にかられた。
 割り箸が少し冷たくなったギョーザをつまみタレにつける。雫がはねた。女はそのギョーザをゆっくりと口に運んだ。
 男のラーメンを今度は若い店員が運んできた。
 男は例の嫌みな手つきでグイッとスープをひと口飲むと、どんぶりを音を立ててテーブルに戻した。そして、GABANと書かれた黒コショウの容器を手に取り、あろうことかそれをネギラーメンの上に振りかけはじめた。
 コショウはラーメンを半分ぐらい食べたところで入れる。はじめからコショウをかけてしまうのはラーメンへの侮辱でもある。日頃そう言って、男が最も軽蔑しているしぐさだった。
 さつまっ子ラーメンの外は、雪かしら。女は、眉根を寄せた男の端正な顔を見ながら、初めてのネギラーメンをようやく食べ終えた。

※「ネギラーメン」を「マティーニ」、ラーメン屋をバーに置き換えて読むことをお勧めします。

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